淡路町2丁目界隈の今昔 その4開成学校の碑

淡路公園の一角に「開成学校発祥の地」という碑があります。裏側に略年譜があります。

「明治4年 佐野鼎(さの かなえ)共立学校を創立、明治11年 高橋是清(たかはし これきよ)初代校長に就任、明治28年 東京府開成尋常中学校、明治34年 私立東京開成中学校、大正12年 関東大震災により 淡路町校舎焼失、大正13年 日暮里校舎を造営移転」

 

創立者の佐野鼎は金沢藩出身の武士で、同藩の洋式兵学校の砲術師範をしていました。その後幕府の遣米使節、遣欧使節の両方に参加し、当時としてはトップクラスの外国通となりました。維新後は小石川造兵司(鉄砲、大砲の軍工場)の頭になりますが、1871年(明治4年)、日本でも欧米流の教育が必要との考えから「共立学校」を淡路町に設立します。

 しかしわずか6年後の1877年に佐野は47歳の若さで亡くなり、学校は廃校寸前となります。そこで大学予備門の教師だった高橋是清(たかはし これきよ)が校長に就任、立て直しを図り、大学予備門への進学者のための寄宿制の進学予備校として改革を行いました。高橋が校長に就任した翌年の1879年には、共立学校からの大学予備門入学者が定員466名のところ、実に112名に達し、以降も第一高等中学校(のちの一高)への合格者数上位校として知られるようになりました。

当時の卒業生には正岡子規、秋山真之、南方熊楠などがいました。

 

1891年の中学校令の一部改正により私立校は軒並み生徒が集まらなくなりました。そこで、共立学校は東京府の管轄下に入り、東京府開成尋常中学校と名を改めました。

1901年に府の管轄から私立へ復して私立東京開成中学校となり、1919年に東京開成中学校と改称しました。

1924年に、関東大震災により淡路町校舎が焼失したため、現在の荒川区西日暮里に移転しました。

(出典:Wikipedia)

 

淡路公園にある開成学校の碑

佐野鼎(さの かなえ)

開成学校正門

図書館(後ろに薄っすらとニコライ堂が見える)