淡路町2丁目界隈の今昔 その12 筋違橋と昌平橋

 筋違橋(すじかいばし)は、神田川にかかっていた門で、現在の昌平橋のおよそ50メートル下流、万世橋の200メートル上流にありました。

 1676年(延宝4年)に架橋。当橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋でした。そしてその橋を守るように筋違見附に設けられた門を筋違橋門(すじかいばしもん)と言い、江戸城三十六見附に数えられ、何よりも江戸城の防衛拠点として、また中山道や下谷御成街道の交通の要衝となっていました。

 筋違橋門は、加賀藩主前田利常によって完成。「すじかい」という名前がついた由来は、中山道と上野寛永寺へ向かう下谷御成街道が交差することから付けられたとさます。

 当時、江戸初期には、江戸城の防衛上から外濠である神田川に見附橋以外の架橋は許されていませんでした。神田川には、昌平橋も万世橋もまだ存在せず、神田川を渡るには将軍や大名は筋違御門、庶民は浅草御門を通るしかありませんでした。

 しかし、明暦の大火などの大火によって江戸の庶民が遠い浅草御門まで行けず、大量の焼死者が出たことから、後に神田川に自由通行できる橋が架けられました。昌平橋の架橋は1846年です。万世橋は筋違橋の代替として架けられたため明治6年(1873年)です。すでに防衛上の問題も無く、人口増による往来と避難路の役割を果たしました。

 淡路町2丁目近くの昌平橋は、筋違橋と併設され昌平橋が大元の中山道に沿ったルート、万世橋が中山道のバイパス道路としての役割を担っていました。

現在では、中央本線の高架のレンガの壁沿いに「御成道」の説明板がたっていて、わずかに筋違橋門があったことがわかるだけ。元の交通博物館の建物の南側を中央線の高架沿いに神田郵便局に向かって歩いていくとレンガ壁の脇に説明板がひっそりとたっています。
                                                (出典:Wikipedia、千代田区HP)

 

筋違橋と昌平橋の位置。 筋違橋付近には、火除け地である八辻原が作られている。

江戸時代の筋違橋と筋違橋門。手前が秋葉原、奥が江戸城側。大名行列が中山道を通り筋違橋門へ向かう様子が描かれている

明治時代の筋違橋門

千代田区による御成道の掲示板