淡路町2丁目界隈の今昔 その14 鈴木淡路守と淡路町

 淡路町の由来は淡路坂から取られ、その淡路坂は鈴木淡路守(あわじのかみ)が住んでいたことによるというのは、このホームページのスタート画面の歴史紹介でも簡単に紹介しています。

 では、鈴木淡路守とはいったいどういう人物で、どこに住んで、なぜ淡路坂の由来となったのでしょう?

鈴木淡路守は、名は鈴木重泰(すずきしげやす)。二代将軍秀忠に仕え御書院番となり、のち御小姓組に転じました。寛文三年(1663)従五位下淡路守に叙任。延宝四年(1676)に62歳で没。秀忠、家光、家綱の三代の将軍に仕えた知行千石の旗本でした。

 

 「淡路守」というのは朝廷の官職名で、もともとは淡路島を治める知事のような役目だったのですが、江戸時代には名誉称号のようなものになり、実体はありませんでした。

 鈴木淡路守が実際に領地を持っていたのは、「弐百石旗本知行所覚書 小西愛之助著」によると、摂津国高浜村、現在の大阪府三島町本町高浜でした、実際の石高は200石だったようです。また「淡路守」は世襲ではなく、子孫は淡路守ではありませんでした。

 

 それではどこに屋敷を構えていたのでしょうか?

 添付した江戸時代の地図を見て頂けると、昌平橋から御茶ノ水駅方向に登って行った現在の淡路坂の途中に、「鈴木淡路守」の文字が出てきます。現在のソラシティ―のお茶の水駅より、神田川寄りのあたりです。他にも幾人もの屋敷があったようです。なぜ幾人もの居住者の中で鈴木淡路守の「淡路」が坂の名前に選ばれたのかは不明です。

 淡路坂の坂名がいつ頃から呼ばれるようになったのかも記録はありませんが、鈴木重泰が淡路守に叙任した寛文三年(1663)以後であることだけは確かです。

 また、地図にはありませんが、神田川沿いの向かいには太田姫稲荷神社がありました。淡路坂はいろいろな名前で呼ばれており、淡路坂と呼ばれる前は太田姫稲荷があったことから、その別称である一口(いもあらい)坂や、神田川の対岸にも坂があったことからツインの坂として相生坂(あいおいざか)などとも呼ばれていました。それらを押しのけて淡路坂となった理由も不明です。

 結局、明治5年(1872年)に淡路坂を由来として淡路町と言う地名が誕生しました。坂の名前が昔のままだったら、もしかしたら淡路町は一口(いもあらい)町、相生町となっていかもしれません。

                       (出典:千代田区HP、江戸坂見聞録、弐百石旗本知行所覚書 等)

 

鈴木淡路守の屋敷の位置

千代田区の淡路坂の紹介版