淡路町2丁目界隈の今昔 その29 神保町とカルチェラタン

 神田神保町の町名は、江戸時代に現在のさくら通りにあった神保小路に由来します。さらに言えば、神保小路はこの道の南側に面してあった旗本の神保伯耆守の屋敷から名づけられました。神保家は元禄年間に、この地の使用を幕府から許可され、以来幕末まで屋敷を構え、かなり大身の旗本であったようです。神保伯耆守の屋敷を古地図でみると、現在の有斐閣から山形屋紙店のあたりではないかと推測されます。

 江戸時代は江戸城に近い表神保小路がメインストリートでした。現在のさくら通りです。一方、横のすずらん通りはそれほど栄えていませんでした。更に、表神保小路の北を走る通りは裏神保小路と呼ばれました。現在の靖国通りです。いまでこそ神田神保町のメインストリートとして機能している靖国通りですが、江戸時代は裏道に過ぎなかったのです。

 神田神保町が本の街になるのは明治初期頃です。当時書店は日本橋界隈に集中していましたが、大名・旗本屋敷跡に開成学校、東京英語学校、学習院など多くの学校が建てられたことから、学生が多く集まり教科書を中心に本の需要が高まった結果、本屋街へと成長しました。

 神保町とその周辺には、大学・予備校が集中しています。明治・中央・法政・日大・専修の各大学は神田に集った各校として「神田5大学」と呼ばれていました。特に明治、中央、日大、専修が軒を連ねる街並みは、「日本のカルチェ・ラタン」と呼ばれました。

                    (出典:千代田区HP、Wikipedia、歴史文化探訪ラボ等)