淡路町2丁目界隈の今昔 その35 湯島聖堂と東京科学大学

 先週は湯島天神と松住町のお話でしたが、今回はそのお隣りの湯島聖堂のお話です。

 JR御茶ノ水駅から聖橋を渡るとすぐ右側にある湯島聖堂ですが、ここは何の施設だったのかご存じでしょうか?

 簡単に言うとここは江戸時代の大学兼出版所でした。しかも日本の学問の中心だったのです。現代では正式には「史跡湯島聖堂 昌平坂学問所(別名昌平黌)(黌(こう)は学校の意味)」といいます。

 江戸時代になり戦のない泰平の世になってくると、身分秩序を正当化した儒教が徳川幕府体制を維持する上で都合がよいため、奨励されました。

 儒学者・林羅山は寛永9年(1632)現在の上野公園の私邸内に孔子を祀る孔子廟や私塾などを作りました。そして5代将軍徳川綱吉の時代に新たな聖堂を湯島に建設することになり、元禄3年(1690)創建されたのが、現在につながる湯島聖堂です。

 ところが寛政2年(1790)になると老中・松平定信が出した、「寛政異学の禁」により、朱子学が奨励されるようになります。それにより、湯島聖堂も林家から切り離され、幕府直轄の最高学府として「昌平坂学問所(昌平黌)」が設立されたのです。なお、この「昌平」ですが、孔子の生地である「昌平郷」にちなんだものです。

 昌平坂学問所は今よりもずっと広く、現在の東京科学大学(旧東京医科歯科大学)の敷地も含め一万二千坪もあったようです。ここで学ぶ生徒は幕臣の子弟で、学生寮もありました。

 学ぶ学問は儒学、特に朱子学で、教材は四書五経でした。やがて学生は幕臣に限られなくなり、陪臣・浪人・町人にも許可されるようになりました。幕末には、維新の英雄高杉晋作もはるばる長州から上京し、通っていたようです。他にも、佐久間象山、渡辺崋山、榎本揚武、清河八郎といった面々が学んでいました。

 昌平坂学問所は明治維新により閉鎖、しかし洋学の開成所、西洋医学の医学所(和泉町)と共に再編され、東京大学へと繋がっていきました。

 学問所のあった場所には、東京師範学校や東京女子師範学校などが設置され、1930年(昭和5年)東京医科歯科大(現東京科学大学)が移転してきました。

 我が淡路町2丁目のワテラススチューデントハウスにも、東京科学大学の学生さんが何人も在籍しています。今も昔も昌平坂学問所の地には、前途有望な若者が日本中から集まり、日本の発展へと寄与していったのです。

            (出典:千代田区HP、Wikipedia、歴人マガジン 他)

 

孔子廟

江戸古地図湯島聖堂 左下の赤枠が湯島聖堂、かなり広い敷地だと分かる

昌平坂学問所 東京大学史料編纂所資料