淡路町二丁目界隈の今昔 その38 日枝神社と2つの天下祭り 前編

 つい先週、盛大に山王祭が執り行われた日枝神社ですが、よく考えると、日枝神社とも山王神社とも呼ばれています。何故2つもお名前があるのでしょうか?今回はこの日枝神社と2つの天下祭りのお話しを、前編、後編に分けてお送りします。

 日枝神社は、もともとは江戸近辺の守護神として江戸氏が川越に山王宮を祀り、1478年(文明10年)に太田道灌が江戸築城に際し鎮護の神として、川越山王社を勧請したのが始まりです。

その後、徳川家康が1590年(天正18年)に江戸に移封されて江戸城を居城とすると、鎮守の社として崇敬されてきました。

 当初の神社の場所ですが、太田道灌の時代は江戸城内にあったものの、家康の時代に江戸城拡張のため、現在の隼町の国立劇場附近に移ったようです。しかし1657年(明暦3年)の大火の際に社殿が焼失したため、四代将軍徳川家綱が現在の地に造営しました。

 主祭神は大山咋神(おほやまくひのかみ)、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)が祀られています。

 日枝神社に2つの呼び名がある理由は、この神社が「山王信仰」に基づく日吉(日枝)系の神を祀っているためです。

 日枝神社のルーツは、滋賀県・比叡山麓の「日吉(ひよし)社」(現在の日吉大社)にあり、比叡山延暦寺の守護神として祀られた日吉社の神々は「山王(さんのう)」と呼ばれ、全国に広まりました。そのため、日枝神社=山王社(山王神社)として2つの名前が使われてきたのです。

 この日枝神社、江戸時代の川柳でも「神輿深川、山車神田、だだっ広いは山王様」と言われるほど氏子区域がとびぬけて広く、現在の中央区・千代田区を中心に160余町に及び、江戸の中心市街地の大部分を占めていた、と言われています。

主な地域だけでも、日本橋エリア(本町、室町、小舟町、堀留町、大伝馬町、小網町、八重洲)、京橋・銀座エリア(京橋一〜三丁目、銀座一〜八丁目など)、 神田エリア(内神田・外神田、鍛冶町、本石町、司町、須田町)、 麹町・平河町・四谷エリア(麹町一〜六丁目、平河町、山元町、四谷一〜二丁目)その他 新川(大川端町)箱崎町、人形町周辺(小網町関連)までも含まれていました。

 え? そこは神田明神の氏子の区域じゃないかだって? そうです。江戸時代には、日枝神社と神田明神の両方の氏子となっていた町が多数存在し、その重複は江戸中心部の町々ではむしろ“普通”だったのです。

 これは、日枝神社と神田明神は、江戸城の守護神として特に重んじられていたため、中央区・千代田区の町々は両社の氏子となるケースが多かったことや、町単位での信仰は“重複してよい”という江戸の慣習があったためです。

 しかし、明治時代に入ると明治政府は神社制度を再編し、氏子区域と神社の管轄、祭礼の担当町会を明確に区分するよう指導したため、重複氏子は制度上なくなりました。

 千字を超え、少々長くなってしまいました。続きは後編といたします。

         (出典: 千代田区文化財HP、日枝神社HP、Wikipedia 他)

 

日枝神社の氏子町会エリア

神田明神氏子エリア