淡路町2丁目界隈の今昔 その39 日枝神社と2つの天下祭り 後編

この回は日枝神社と2つの天下祭り後編です。

さて、2つの天下祭りですが、具体的には山王祭と神田祭です。

何故天下祭りと言うかというと、両方とも江戸城に正式に入ることを許された祭りだからです。

 まず寛永5年(1628)、神田祭(神田明神)が江戸城内に入り将軍上覧が許されました。次いで寛永12年(1635)、山王祭が許可され、2つの天下祭が確立しました。

なぜ神田祭の方が先に江戸城入場を許されたのでしょうか?理由は、神田明神が徳川家康の「江戸総鎮守」だったためです。家康は江戸入府(1590)後、江戸城の守護神として神田明神を厚く保護、更に関ヶ原の戦い(1600)で勝利した際、神田明神に深く感謝したため、早くから格式が高かったようです。

そして日枝神社ですが、江戸城鎮守であり裏鬼門(南西)を守護する、として重要視されていました。また、三代将軍家光が初めて江戸城内で生まれ、自身の鎮守の守として特に崇めていたため、家光の時代に許されたと言われています。

(神田祭は元和年間(16151624頃)、山王祭は寛永年間(1630頃)という説など諸説あり)

 さて、それでは江戸城にはどこから入り、どこで将軍は上覧されたのでしょうか?

 山王祭は、45基の山車と3基の神輿が半蔵門から入城し、吹上御所の横を通り、上覧所で将軍に上覧頂、竹橋を通って下城したようです。

一方、神田祭は、九段坂から田安門に入り、吹上の上覧所で将軍や大奥の拝謁を終え、竹橋御門より下城したようです。

また、町々の山車・神輿は、本丸御殿の前で停止し、将軍に向けて“見せ場”として、山車に仕掛けがあり、人形がせり上がる、からくりが動く、鳥や龍が羽ばたく、能や歌舞伎の名場面を披露する、などのパフォーマンスを見せたとのことです。上覧は厳粛でありながら、将軍が町人文化を直接見る唯一の機会として非常に重視されたとのことです。

そんな天下祭りですが、幕末になり、文久2年(1862) の山王祭が最後の上覧となりました。幕末の政情不安によりその後は中止され、明治維新後は江戸城が皇居となり、城内渡御は完全に廃止となったのです。

 

 出典: 千代田区文化財HP、日枝神社HPWikipedia 他)

山王祭御祭禮図 天保頃 歌川国輝 東京都立図書館蔵

山王祭 江戸城内ルート

神田祭江戸城内ルート

神田祭 山車